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VJである前に、クラバーでありたい——ダンスフロアに向き合うということ

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前回の記事「VJにはその人の人生が映る——だから楽しい」を一ヶ月前に書いた。あの記事では、自分のVJスタイルを支えるバックボーン——認知科学、クラブ通い、エンジニアリング——を言語化し、「VJに正解はない」という結論で締めた。

今回はその続きのような話を書く。前回と同じく、あるべき論ではない。答えはでていないし、答えはない問いについて、禅問答のように考えている途中のことをそのまま書く。VJを続けてきた中でずっと考えてきたことの、現時点でのスナップショットだと思ってほしい。

TL;DR

  • 自分のスイッチングは「パチンコ」に見えるかもしれない
  • でも構成に宿る物語を信じている。ただ、それが届いているかはわからない
  • フロアは踊る場所だ。でも時代は変わっている
  • VJは舞台装置の一部、主役はDJとオーディエンスの対話だと信じている
  • 答えは出ていない。でもフロアに向き合い続けることは変えない

自分のVJは「刺激の提示」なのか

最近、VJのJACKSON kaki氏のインタビュー記事(Always Listening by Audio-Technica「VJとは音楽のポテンシャルを『拡張』する、想像力の装置。JACKSON kakiがデジタル空間に”物語”を召喚する理由」)を読んだ。彼はUnityやAIを駆使しながらも、技術や情報量よりも「物語性」を最も重視するという。その中で、音に合わせて図形がパチパチと動くような演出について、突き詰めれば行き着く先は「パチンコ」と同じ単なる刺激の提示になってしまう、という趣旨のことを語っていた。数学的に音を解析するのではなく、ゼロイチでは割り切れない「文学」や「物語」を提示したい、と。

喰らった。

私のVJの軸は、認知科学に基づいたスイッチング——制約を入れた映像の切替だ。1拍目と3拍目は頻繁に差し替え、2拍目と4拍目は固定する。曲の展開が変わったときに固定を崩すことで、オーディエンスの脳に「何かが変わった」という気付きを生む。前回の記事で詳しく書いた通りだ。

これは無作為に映像をパチパチ切り替えているわけではない。制約があるからこそ、その制約を崩したときにインパクトが生まれる——そういう設計だ。だが、外から見れば「映像が音に合わせてパチパチ切り替わっている」ようにしか見えないかもしれない。JACKSON kaki氏の指す「刺激の提示」そのものに見えるだろう。

悔しいが認めざるを得ない。一面の真実を突いていると思う。

構成に宿る物語

ただ、喰らったまま終わるつもりはない。

最近、DJの¥ØU$UK€ ¥UK1MAT$Uが世界的に評価されている。ジャンルを横断する予測不可能な選曲と、全身で音楽をぶつけてくる熱量。だが、私が彼のセットに惹かれる理由はそれだけではない。構成の巧みさ——何を選び、どう並べ、どう繋ぐか——の中に、彼がこれまで歩んできた人生が物語として滲み出ているように、私には見える。彼自身はトラックメイカーではない。にもかかわらず、そのDJセットには彼にしか出せない物語がある。

選択と構成そのものが表現であり、物語になりうる。

彼に自己投影するのも大変おこがましい話ではあるが、私のVJも同じだと信じたい気持ちがある。映像素材そのものに壮大な物語を込めなくても、何を選び、どのタイミングで、どういう構造で提示するか——その判断の連続の中に、認知科学を学んだ思考、クラブで身体に刻んだ音楽の記憶、エンジニアとしての設計思想が滲み出ている。それが私の物語だ。

そして、その「構成」はスイッチング単体の話だけではない。一晩を通した流れも、私が強く意識している構成の一部だ。

イベントの開始直後、私は照明の色に映像を合わせ、変化もゆっくりにする。オーディエンスはまだその空間に慣れていない。最初から映像がパキパキ切り替わっていたら、その情報量に圧倒されて疲れてしまう。だから、空間に馴染ませていく時間として映像も静かに置く。ピークタイムにさしかかると、音ハメを重視した展開に切り替えていく。そして、ここぞというタイミングで、それまで色を抑えてきた画面に、カラフルで鮮烈な映像を投げ込む。情報量を抑えてきたところに強い情報が入ってくることで、強烈なインパクトが生まれる。イベントが終わるタイミングでは、再びゆったりとした映像に戻し、オーディエンスを非現実の空間から現実に戻していく。

これを物語と呼んでいいのかはわからない。でも、一晩の中に起伏があり、抑制と解放があり、入りと出口がある。少なくとも私の中では、一晩を通した一つの流れとして設計している。スイッチングの音ハメも、その大きな流れの中の一要素として位置づけられている。

ただ、それがフロアにいるオーディエンスに届いているかどうかは、正直わからない。構成に物語が宿ると信じているのは私であって、オーディエンスがそれを物語として受け取っているかは別の話だ。自分が信じているだけかもしれない。

ただ、表面に見えるものだけでは評価できない表現があることも事実だ。たとえばミニマルテクノは、外から聴けば同じビートとループがひたすら繰り返されているだけに聴こえる。だが実際には、ハイハットが少しずつ前に出てきたり、ベースのフィルターがゆっくり開いていったり、数十分かけて微細な要素が変化していく。その変化はフロアに浴び続けて初めて気づくもので、30秒切り取って聴いても何も伝わらない。表面の単調さの下に、緻密な時間設計がある。

私のスイッチングも、外から見れば映像がパチパチ切り替わっているだけだ。でも、そこに至るまでの認知科学の研究、フロアで身体に刻んだ音楽の記憶、制約の設計、そして一晩を通した起伏の組み立て——そのプロセスに物語が宿っていると、信じたい。

もちろん映像の「内容」に物語を込めるアプローチもある。3DCGで構築された世界観、モチーフの選択、視覚的なナラティブ。kaki氏が大切にしているのは、おそらくこちらの物語だ。それも紛れもなく物語だし、私も心から尊敬する表現だ。ただ、私が信じているのは映像の「構成」と「一晩の流れ」に宿る物語であり、同じ「物語」という言葉でも、指しているものは人によって違う。どちらが正しいという話ではないし、どちらが届いているかもわからない。

フロアは踊る場所だ

もうひとつ、最近考えていることがある。

先日あるイベントで、DJが「PUT YOUR F**KING PHONE, DANCE, DANCE, DANCE」というフレーズが入った曲を流していた。DJはステージ上で楽しそうに踊っている。そしてオーディエンスは、その光景をカメラを掲げて撮影していた。その光景を見て、自分の中にある「フロアはこうあってほしい」という像と、目の前の現実とのギャップに、少し戸惑った。

でも、本当はそれは戸惑うべきことなのだろうか。非日常を切り取って共有したいという欲求は、今のSNS時代において、もはやごくありふれた自然なことだ。フロアでスマホを構えることは、時代の中で普通のことになっている。戸惑っているのは私だけで、それは私の感覚が時代に追いついていないだけなのかもしれない。

その上で、それでも私はダンスフロアは踊るための場所だと思っている。オーディエンスには踊っていてほしい。音を浴びて、身体を動かして、音に没頭してほしい。ダンスフロアは、誰にも憚られることなく音への没頭が許される特別な空間だ。日常では、人前で身体を揺らすことも、目を閉じて音に身を委ねることも、どこかで他人の目を気にしてしまう。でもフロアでは、それが許される。むしろ、それが歓迎される。クラブは現実から切り離された非現実の空間で、その夜のあいだだけ、日常の自分を脇に置いて音に没頭できる。だからこそ、その特別な時間をスマホの画面越しに過ごすのはもったいないと、私は思ってしまう。ただ、それは私がそう思っているというだけの話で、フロアの正解ではない。

そして、正直に言えば、私自身にも矛盾がある。VJとして演出した現場でポートフォリオとしてカメラで撮影することをよくしている。フロアでは踊っていてほしいと思いながら、自分は記録する側に回っている。

例えばこれは先週末のAndromedik公演の様子をVJブースから撮影したものだ。

この矛盾に、まだ答えは出ていない。私の撮影は仕事の記録だから許される、と言えるかというと、決してそうではないと思う。むしろ、自分の過去のパフォーマンスを振り返ると、VJとしてではなく一人のオーディエンスとして音に没入している時のほうが、明らかに良いVJができている実感がある。記録するために意識を画面に向けた瞬間、フロアの空気から自分が一歩離れてしまう。その一歩の距離が、映像にも出てしまう気がする。

後から自分のVJの映像を見直すと、不思議なことに、なぜそこで映像を切り替えているのか自分でも分からないことがある。でも、現場で出している時は、バシッとハマっている感覚がある。映像と音の合致は、現場の身体感覚の中でしか成立しないものなのかもしれない。

だから私は、常々「VJである前に、クラバーでありたい」と言っている。フロアに立ち、音に没頭する身体を持っていることが、VJとしての出発点だと思っている。

VJは何を支える存在か

私の原体験は、学生時代にクラブのフロアで体験した石野卓球のテクノセットだ。DJとオーディエンスの即興の対話が主役で、照明もVJもその対話を支える空間の一部だった。あの体験があるから、私はフロアは踊る場所だと思っているし、VJは裏方だと思っている。でも、それは私の原体験がそうだったからであって、全員にとっての正解ではない。

前のセクションで、物語は映像の「内容」だけでなく「構成」にも宿ると書いた。その考えの延長で思うことがある。

VJに作家性は必要か、必要でないか。この議論はVJの界隈でよくある。私の現時点での考えは、作家性は必要だが、それは映像の内容で物語を語ることだけを指すわけではない、というものだ。一晩を通した構成を組むこと、空間との調和を設計すること、それもまた一つの作家性の形だと思う。そして私が大事にしたいのは、こちらの作家性だ。映像そのもので主張するのではなく、空間との調和の中で、結果として滲み出てくるもの。それが私にとっての作家性のあり方だ。

ステージにはDJがいて、音がある。照明があり、空間がある。オーディエンスがいて、その夜の空気がある。VJはそのすべてと調和する一つの要素であって、主役ではない。主役は、DJとオーディエンスのあいだで生まれる即興的な対話そのものだと思っている。DJが音を投げかけ、オーディエンスが身体で応える。その応答にDJがさらに反応し、選曲が変わり、フロアの熱量が変わる。この往復こそがクラブの主役で、オーディエンスがいなければそもそもこの対話は成立しない。VJはその対話の場を、映像という側面から支える側だ。映像が「これは私の作品だ」と主張し始めた瞬間、空間の調和が崩れる気がする。私はVJを、舞台装置の一つを担う裏方として捉えていて、空間との調和を意識することのほうが、自分の作家性を表現することよりずっと大事だと思っている。

もちろん、これは私の立場でしかない。Anymaのように完成された世界観をステージに投影するアプローチも、JACKSON kaki氏のように映像の中に物語を構築するアプローチも、それ自体が一つの完成された芸術形式であり、私は心から尊敬している。ただ、私自身がVJとして立ちたい場所は、そこではない。私が立ちたいのは、舞台装置の一部として空間に溶け込み、DJとオーディエンスの対話を裏側から支える場所だ。

では、私の物語や作家性はどこから来るのか。私の物語も、私の作家性も、一人のクラバーとして音に没頭する中から自然と出てくるものだと思っている。

即興の物語

最近、事前に設計・制作された映像がセットリストに沿って展開されるライブパフォーマンスをクラブに持ち込むことが増えている。私自身もアイドルのライブ演出でそうした仕事をしているし、完成された映像演出の力は身をもって知っている。

Anymaはその象徴的な存在だと思う。Anymaの楽曲は大好きだし、映像演出は素晴らしく、作り込まれたライブパフォーマンスとしての体験を提供している。オーディエンスはその体験を求めて集まり、カメラを掲げて記録する。私自身もあの現場にいたら撮影してしまうだろう。もっとも、SNSを通じて見えてくるのが作り込まれたパフォーマンスばかりだというだけかもしれない。完成された物語は撮影されSNSで伝播するが、即興の物語はそもそも流れてこない。

一方で、クラブには即興の物語がある。DJが即興で選曲し繋ぐ。VJも即興で映像を選び切り替える。物語は事前に用意されたものではなく、その夜、その場で、演者のバックグラウンドから滲み出てくる。体験はその場限りで、再現できない。

私が信じているのは、この即興の物語だ。

クラブの即興の物語は、その場の文脈——前の曲からの流れ、フロアの空気、身体の状態——の中でしか成立しない。30秒の動画を切り取ってSNSに上げても、そこに即興の物語は映らない。私の認知科学に基づくスイッチングの快感も、一晩を通した起伏の設計も、音と一緒にフロアで浴び続けて初めて脳に届くものだ。

どちらの物語が優れているという話ではない。そして、どちらを志向するかもまた、その人の原体験——人生のバックグラウンド——に依存する。前回の記事で「VJにはその人の人生が映る」と書いたが、それは映像表現だけでなく、VJとしての立ち位置そのものにも言えることなのだと思う。

答えは出ていない

ダンスフロアに求められる映像表現とは何か。この問いに対する答えは出ていないし、そもそも答えはないのかもしれない。

ただ、自分が信じていることはある。

フロアは踊る場所だ。VJの映像は、その場で音と一緒に浴びて初めて届くものだ。構成の中に物語は宿る。そして、その物語はその人の人生から滲み出る。

時代は変わっている。オーディエンスがフロアに求めるものも変わっていく。何を変え、何を変えないのか、その答えもまだ出ていない。

ただ、VJとしてではなく一人のクラバーとして、ダンスフロアとそこにいるオーディエンスに対して真摯に向き合い続けること。それだけは変えない。

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